ココロとカラダの健康を考えること。
自爪育成ネイルケアリスト | 花井可奈子
花井 可奈子(はない かなこ)
自爪育成サロングランクール 【恵比寿】
主宰ネイルケアリスト
■カリフォルニア州マニキュアリストライセンス(米国国家資格)取得
プロフィール
クリスチャンディオール化粧品営業、シャネルマーケティング部広告担当として活躍。ハードな広告代理店業務の傍ら、運命を感じてネイルスクールへ通う。その後渡米し、ライセンスを取得。1996年にオープンしたグランクールは、長年に渡り愛され続けている。
Story
――花井さんはもともと、シャネル広報部でご活躍されていたとのことですが、そこからネイルの道を志したきっかけはなんだったんですか。
シャネルで働く前は、コンピューター商社で働いていたのですが、せっかく大学まで卒業したのに、コピーとりを繰り返す毎日に疑問を感じるようになったんです。
というのも、その頃はまだ「男女雇用機会均等法」ができる前。コンピューターが出てきたばかりの時で、男性として生まれてくればほぼ就職できる、といえるほどに “男性売り手市場” の時代でした。就職をするにしても、女性には様々な条件が課せられていて、現代のようにバリバリ働く女性を求めている時代ではありませんでした。女性社員は、朝会社に到着したら机を拭いて、お茶汲んで、灰皿を洗ってっていうのが当たり前でしたし。
当時は4年生大学を出て、一人暮らしをしている女性というのは珍しくて、履歴書上でも「短大卒・実家暮らし」という経歴の方が好まれていたんですね。つまり会社は優秀な人材としてではなく、男性社員の「お嫁さん候補」となる女性を求めていて、「自立した女性は品行方正でない」というレッテルを貼られがちでした。
――すごい時代ですね・・・男性からしてみると「ちょっと扱いづらい女」ということなんでしょうね。
いわゆるセクハラ、モラハラも普通にありましたよ。私がいた部署は、大きな機械を一台3億円という高価格で売る部署で、毎日発注があるわけでもないのでそんなに忙しくなかったんですよね。夕方 5 時半まで時間を潰すのが大変なくらいで。やることなくてずっとコピー室にいるような毎日でした。こっそりロッカーに入ってお菓子を食べる、みたいな(笑)
こんな日々、いやだなあって思っていたのですが、入社2年目になり移動した先できちんと評価されるようになったんですよ。そこは厳しくて有名な上司がいる部署だったのですが、どういうわけか気に入られて。普通は女性に任せてもらえないような仕事を次々に担当させてもらえるようになり、だんだんとやりがいが出てきました。そうやって働く楽しみを見出せたのは良かったものの、当時の社内結婚率は8割と高く、女性は入社3年ほどで良い人を見つけて寿退社というのが普通とされる風潮です。
私は、働くことが好きだったので、仕事自体は続けたいと思っていましたが、コンピューター商社という男畑で自分が心から納得できるキャリアを築いてゆく未来は描けませんでした。そこから、「女性が活躍できる仕事」を模索して、働きながらジュエリーの学校やインテリアの学校に通いました。当時流行っていたインテリアコーディネーターの資格を取得し、建築事務所へプランナーとして転職したもののどうも合わなくてやめたんですよね。
その後、たまたま小さな広告代理店の「Dior担当募集」という採用情報が目にに入りました。小さな会社ではあるものの、名だたるハイブランドの広告を担当していて、そこで働くことにしたんです。結構ハードな環境でしたが、経験を積むために必死になって働きました。
約2年後、それまでの経験を糧に外資系ブランドの募集に応募したところ、シャネル他三社の全てから合格通知をいただけたんです。中でも一番のハイブランドで学んでみたい、とシャネルへの転職を決めました。
――やっぱり、女性にとってシャネルって特別感ありますもんね。
アシスタントとして入社したのですが、すぐにメインで仕事をさせていただけるようになりました。10億という広告予算も任せてもらえたりと、やりがいのある充実した毎日を過ごしていたんです。 そのせいか社内で色々と人間関係の問題が…、私はシャネルが大好きだったのでここで働き続けたいと強く思っていたのですが問題はなかなか収まらず… そんな時、パリの大きな広告代理店で多くのブランドメーカーを取り仕切る企業が、日本支社を作るということで、立ち上げメンバーとしてこないかとヘッドハンティングのお話をいただきました。かなり好条件でお声がけいただいたので、転職を決め、そちらで数年働いたものの… やっぱり広告代理店て虚しさを感じる部分もあって。どこまでいってもマージン商売というか。
――まあ、あくまで自社の商品を売っているわけではないですもんね。
そうなんですよ。あとは、広告代理店こそやっぱり男社会なんですよね。
――現代でもそういう節がありますから当時はもっとでしょうね。
これだけハードな仕事を 50,60 歳までやっていけるのかな…続けていくのは不毛なのでは…と思い始めていたある日、テレビを見ていたらアメリカ一のネイルスクール「ウィンバ」が映っていたんです。そこでふと、「そっか・・・アメリカで勉強して手に職をつけようかなって」本当にふっと思ったんです。
そうと決めたら、まずは5年間お金を貯めるために今の会社で働こう、そして5年後、渡米してネイルの勉強をしよう!と、目標が明確になりました。
そうして3年ほど経ったある日、何気なく表参道を歩いていたら、「ウィンバ日本校オープン!」という看板が目に飛び込んできて。驚きましたね。これはタイミングだろうって。
日本校で学べるならその方がリスクも資金も少なくて済む。土曜日クラスなら仕事も辞めずに通える。そしてアメリカ研修もあるし、卒業後はアメリカのマニキュアリストライセンスも手に入るという充実した内容。募集定員はあと数名… 「これは、もう行くしかない!」と思い切って入学を決めました。33歳の時でした。
――なんかもう、ネイルの道に導かれたような出来事ですね。働きながら学校に通いはじめたことで、広告代理店での仕事になりかしらの影響はあったりしたんですか?
ネイルスクールで 1 年間勉強し、技術を習得したら独立するって自分の中で決めていたせいか、適度に力を抜いて仕事をするようになったんです。そうしたら面白いことに、逆に私の評価が上がっていったんですよね。(笑)
評価されようと力んで仕事していた時よりも、うまくやれるようになりました。
――目標を持ったことで、仕事に対して肩の力が抜けるようになった、と。
そうですね。本当にやりたいことを見つけてそのために今頑張ってるんだって「目的意識」を持ったからですかね。多分生き生きしてたんだと思います。
実はちょうどその頃、友人に誘われて占い師さんに仕事運を見てもらったことがあって、手先の仕事が向いてると言われたんです。その後スクールに通い始めて少ししたころ、あれはきっとネイルのことだったかもしれないと思うようになったんですよね。とはいえまだまだ「ネイルケア」という美容概念が根付く前の話ですから、これを仕事にしていくというのは未知の挑戦でしたね。
私は広告の仕事柄、リサーチを兼ねてよくエステサロンに出向くことがあったのですが、そこでいち早くネイルケアを体験する機会がありました。でも、正直仕上がりは微妙で… 数日すると爪が全部ささくれてしまうんです。当時、ネイルを専門とするサロンはほとんどありませんでしたし、仮にあったとしても、爪にめいいっぱい “盛る”ような派手なスタイルが多くて、私が今でもテーマとする「自爪の健康を育てる」サロンはなかなかありませんでした。となると卒業後に、どこかのサロンで働こうにもチョイスがないし、そもそも誰かに雇われるという未来がもう私の中で描けなくなっていたので、卒業後は独立することを決めていました。
日中は広告代理店で働きながら、週末はスクールに通い、夜は自宅でネイルケアの勉強として”毎日”予約をとりました。そうして友人200名を無料でお手入れしながら学んでいったんです。今振り返っても、人生であれほどがむしゃらになった1年間はないと思います。無遅刻無欠席で学校に通ったのもあれが初めてでしたね(笑)
——やっぱり「これだ!」というものを見つけた人はエネルギーが違いますね。
そうして後半はシュミレーションサロンを3・4ヶ月間、外苑前駅前の小さなマンションでやりました。まだプロではなかったので、施術代は2000円だけ頂いて。そうやって施術を重ねては技術をブラッシュアップしていきました。
ーーどのタイミングで会社をお辞めになったんですか
卒業前にあるアメリカ研修の直前に辞めましたね。34 歳だったと思います。そうして帰国後から、本格的にお店が始められるようにサロン物件もみつけていました。でも最初はサロン家賃が一人じゃ払いきれないので、知り合いのエステサロンをやっている子と折半したり。
――今では当たり前となってきたシェアサロンを先にやっていた感じですね。
そうですね。家賃も半分になり、お互いを高めあえるような関係でした。相乗効果というか。彼女の存在は本当に大きかったです。
――「自爪ケア」というコンセプトは最初から決めていたんですか?
はい、「自爪以外はやらない」ということは最初からクリアでした。というのも、勉強期間に200 名の施術を重ねていく中で、オリジナルメソッドを見つけたんです。ファイルの仕方やオフの仕方など独自の黄金理論を見いだしていきました。これは化粧品メーカーで勤めてきたことや実家が美容院であることなど、これまで積み重ねてきた全ての経験から生まれたものだと思います。
——全ての点が線となって繋がったんですね。その後、2000年に入ってジェルネイルブームが到来すると思うのですが、「自爪育成」というコンセプトはぶれなかったんですか。
ジェルネイルですよね…ブームが到来した時は本っ当に大変でした。グランクールがオープンして3年した頃、数々の雑誌にも取り上げられる機会がありいわば「グランクールバブル」が訪れたんです。売り上げもお客様の数もそれまでの倍。
そしてその後を追うようにジェルネイルブームが到来し、お客様も従業員も一気に流れて行きました。まさに天から地へ… 正直、私のサロンでもジェルを取り入れようか迷って、試しにお客さんの立場でジェルを体験するためいくつかのサロンに行ってみたんですね。
そこで色々と突っ込んで聞いては見たのですが、納得のいく答えは帰ってきませんでした。自分の体で試してみても、本当に爪の健康を考えているかという点ではやはり疑問が残る。目先の売り上げを重視するならジェルを取り入れるべきだったかもしれないですが、やはり自分が心からオススメしたいと思えないものを扱うことはできないので、その選択は取らず「自爪」を貫くことにしました。
――まさに、”職人”ですね。でもそうしてまた時代が巡り、やっぱりジェルは痛むんじゃないかっていう声も出てきて、今また自爪派が増えてきていますよね。
そうなんです。ここ 3,4年はジェルネイルをやって、爪が傷んできた人が多く来られます。みなさん一通りジェルを経験して傷みに気付き始め、色々な知識もついてきて、お店選びが昔と大分変わってきているように思いますね。それから面白いことに、最近はネイル初心者の若いお客様がジェルネイルではなくあえて自爪を選んで来ることも多いんですよ。すでに情報が豊富な世代なので「最初から自爪でっ」ていう。
ネイルケアを一周して自爪に戻る人、ネイルケアを自爪から始めてみる人が半々という現象が起きています。
――ネイルサロンが日本に広まり始めた頃から、ずっとぶれずに「自爪の健康育成」をテーマとし、自爪ケアのパイオニアといえる花井さん。これからの目標は何ですか?
やはり、自分の技術を伝承していくことですね。積み上げてきた技術の集大成である『爪健美道®』メソッドを世に広めていくため、正しい知識としっかりとした技術を兼ね備えた技術者を育てる、「自爪育成ネイルケア®協会」を2017年に立ち上げました。『爪健美道®』メソッドを後世に残すべく、出来る限り多くの自爪育成ネイルケア®士を輩出していきたいと思っています。
加えて、自爪育成ネイルケア®の集大成を形した自爪ファーストの『爪健美道®』オリジナルネイルケア製品が、令和元年中の発売を目指してプロジェクトが進行中です。さらには、『爪健美道®』メソッドによるお年寄りや身体の不自由な方々へのボランティア活動も活発に行っていきたいと思っています。
いずれも、大変ですが、ワクワクすることばかりです。一人でも多くの方の「美しく健康な自爪」のためにこれからも邁進していきたいと思います。
Message
あなたの爪は、本当に健康ですか?本当に美しいですか?
二枚爪や噛み爪、ジェルネイルの使用、あるいは偏食や生活習慣の乱れなどにより、現代人の爪の健康状態は、年々悪化しているといえます。日々酷使され、人の目にも映りやすい手の爪は、いわば第2の顔。爪の美しさを追求するうちに、 本物の美しさとは、健康がもたらすものなのだと気づきました。以来、お客様の健康な「自爪」を育てることが、私の使命であると感じています。本物の美しさを願うなら、ぜひ一度グランクールへお越しください。
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