「もっと上手くなりたい!」
負けず嫌いからのめり込んだ料理の道。
”できない” を知っているのは大きな強み。

匠STORY

洋菓子研究家|木村幸子

プロフィール


木村 幸子 (きむら さちこ)

料理家・洋菓子研究家

青山にて人気のお菓子教室「洋菓子教室トロワ・スール」を主宰。グルテンフリーや低糖質、はちみつを使用した体に優しいお菓子や料理のレシピ開発・監修の実績多数。飲食店や企業などへの商品開発やレシピ提供、TV・雑誌、WEB での監修・出演・コーディネートに多数携わる。洋菓子店や専門店のアイスクリーム監修も数多く手がけ、最近では東京富士大学内にある「Darcy’s-Guilt Free Ice Cream Labo」のレシピ監修を行う。2012 年2 月に「最大のチョコレートキャンディーの彫刻」の分野にて、ギネス世界記録のお菓子の製作、世界記録と認定される。著書『夢のゴージャスチョコレシピ』『ハロウィンパーティレシピ』『毎日がしあわせになるはちみつ生活』『小麦粉なしでもこんなにおいしい!米粉と大豆粉のお菓子』『罪悪感のない間食・夜食』『悪魔のご褒美デビルサンド』(主婦の友インフォス)他多数。

Story

―木村さんが料理の道に入った経緯について教えてください。

きっかけは高校生の頃。私は、学校推薦で進学が決まっていたため時間を持て余していたんです。周りは受験勉強一色で相手にしてもらえなかったのもあって、アルバイトしたお金で料理教室に通い始めました。初めは料理を習っていたのですが、たまたま教室の方に「お菓子を作る講座もあるよ」と勧められて、「いいかも!」と軽い気持ちで始めたのが、お菓子に興味を持つきっかけでした。

講座の参加者は、主婦や年齢層が上の女性が多くて高校生は私くらいだったんですね。そうすると、皆さん当然ながら私よりもはるかに家事や料理の経験値が高くて、私だけ恐ろしくできが悪かったんです。教室の誰もが初めて作るものなのに、明らかに仕上がりに差があって。「私って、人より出来ないんだ・・・」って、ものすごくショックを受けましたね。それがめちゃくちゃ悔しくて、せめて人並みに作れるようになろう!って思ったのが原点なんです。

劣等感から教室に通い続けていたら、人並みに作れるようにはなったんです。すると、今度は「もっと上手くなりたい!もっと美味しいものを作りたい!」という欲が止まらなくなって。その時の自分は、この仕事に就きたいというよりは、向上心や探究心に駆り立てられていましたね。

 

―お菓子づくりにのめりこむようになったのは、何か理由が?

20歳くらいの頃には、紅茶の教室にも通っていました。世間では紅茶ブームがきていて、全国展開のお茶屋さんができ始めた頃だったんですね。当時習っていた先生のところに、カルチャーセンターから紅茶の講座をやって欲しいと依頼がきたんです。でも先生のスケジュールに都合がつかず、代わりに生徒の中から数名声がかかり、講座を担当することになったんです。その中に私も含まれていました。「20歳そこそこの私が講師!?」と思ったけど、貴重な機会だし、やらせてもらうことになりました。

講座では、紅茶に合うお菓子を自分で用意しないといけないんですね。だから、自分でお菓子を作って持参していたんです。カルチャーセンターなので、参加してくれるのは年齢層が上の方ばかり。それを生かして、いろいろ学ばせて頂きました。そこでは、2年くらい教えていたのかな。大学に通いながら、もちろんお菓子やお茶の教室にも通いながら、講座で教えるということを並行して続けていたんです。そうすると、ある時から「教室で出るお菓子が美味しい!」って評判をいただけるようになって。それがものすごく嬉しかったんです。人から喜んでもらえる価値を知ったというか。

 

 

―開業したいという思いはあったのですか?

その頃はまだ自分が開業するとは思っていなくて。でも、腕が上がれば上がるほど、友人たちから「教えて」と言われる機会が増えてきたんですよね。とにかくお菓子づくりが好きだったから、私は遠い先生のところまでわざわざ習いに行くけれど、集まってくれる友人からは材料費なんかを取れなくて。趣味の延長みたいに無料で教えていました。最初はそれでもよかったけど、やっぱり何度もってなってくるとだんだん負担になってきて。その時初めて「これは、私が看板出してないのが悪いんだ」って感じました。

それで「よし看板だそう!」って教室転進することにしたんです。

 

―起業当初はよく経験することですよね。看板を出そうと決めたのはいつ頃ですか?

社会人になった頃ですね。当時は関西に住んでおりまして、2年ほど保険会社の内勤をしていました。でもね、地元には本格的なお菓子づくりが学べる教室があまりなかったんです。だから、洋菓子店やわざわざ東京まで習いに行っていたんですよ。働いたお給料を東京まで通う費用に充てて。仕事をしながら、時間を見つけて教室に通うという生活を続けていました。それで、頼まれたら時々お菓子づくりを教えるというスタイルをとっていました。具体的に開業を考え始めたのはその頃かな。20代半ばくらいです。

 

―開業して、すぐに人が集まるようになりましたか?

もちろん初めは全然集まりませんでした。当時、関西では家庭的なお菓子を教える教室ばかりで、本格的なお菓子を教えてくれる教室はほとんどなくて。うちはレッスンの料金も倍くらいだったので、看板を出したからといって正規料金で来てくれる人はなかなかいませんでした。それでもコツコツと続けていると徐々に集まってくださるようになりました。家庭的な内容の教室とうちの教室と悩んだ末に来てくれたお客さまが、「こんな本格的なお菓子が作れるんだ!」って驚かれるのと同時に、とても喜んでくださったんですね。その後、みるみるうちに生徒さんが集まってきて、数年間の間に一気に生徒数が増えました。

 

―お教室が人気になった秘訣はあるのでしょうか?

当時の関西で、「本格的なお菓子を家で作れるように教えてくれる教室」というものがなかったのが一番の理由かなと思います。あとは紹介や口コミのおかげですね。一度教室に来てくださったお客様が、また来てくださるというパターンが多くて。家庭内での評判が良かったのかな。広告を出してなかったにも関わらず、気づいたら数年で生徒さんがいっぱいになってしまいました。

あとは、20歳頃ですでにカルチャーセンターの講座で「教える」という経験を積んでいたことも大きかったですね。その頃の先生が厳しかったのもあって、講座の構成や運営、準備から片付けまで、きっちり下積みを経験したことが功を奏しました。

 

―なるほど、その経験はとても貴重でしたね。そんな木村さんに、転機となった出来事はあったのでしょうか?

前々からフランスの国立製菓学校に通いたいという夢があって。そこはプロしか受け入れていないような厳しい学校なんです。順調に教室をやりながらも、自分自身のスキルを上げたいという意欲は隠せませんでした。当時師事していたシェフに相談したら、「こんな機会はないから行くべき!腕をあげにいくだけじゃなく、何を見てくるかが大事。誰もが行けるところではないし、腕は日本に帰ってからいくらでも磨ける!」と背中を押してくれたんです。それで決心がついて、留学をサポートしてくれるエージェントも見つかり、無事製菓学校に入学できたんです。シェフとは、私が卒業したら習ったことをぜひ皆に還元しますと約束をして。

そうして単身渡仏し、留学を終えて日本に帰国したら、師事していたシェフが体を崩されてお店を閉めていたんです。ショックでした。シェフはお店を再建されようとしていたけど、体調の面からそれは難しくて。私には、まだまだ学びたいことがあったけど、彼以外の元で関西でお菓子を学びたいと思えるところはもうなくて。「ならば、ついに東京か・・・」と、ふと思えたんですよね。それで上京を決心したんです。今思うと、これもシェフが私を次のステージへ送り出してくれたんだろうなって恩を感じました。

 

―それで、拠点を関西と東京の2つにしたんですね。

そうなんです。関西では引き続き教室で生徒さんに教えて、東京では数週間滞在して色々な先生方から教わるという生活をしていました。その頃お世話になっていた先生方から、東京で教室を一度やってみないかと生徒さんを集めてくださった機会があったんです。その後、参加された生徒さん達から東京でもまた教室を開催して欲しいとリクエストが来るようになって。問題はレッスンを行う場所。「どうする、今の自分にできることは・・・?」と考えた結果、カフェを借りて東京でも教室を開催することにしました。

すると、その教室でも生徒さんが増えてきて、関西と東京を道具ごと行ったり来たりするのがどうにも難しい規模になってしまって・・・いっそのこと東京でも部屋を借りよう!と考えて、小さい部屋を借りてやり始めました。

―バイタリティがありますね!関西の教室は、今まで通り運営できたのですか?

それがですね、やはり私一人では難しくて。その頃、関西の教室では、生徒さんが100人くらいいました。スタッフも4〜5人いたんですけど、継続すること自体は難しくて。それで泣く泣く教室を閉めることになって。苦いながらもいい経験になりました。その頃ちょうど家庭の事情もいろいろ重なって、自分の中でも気持ちの整理がついたので、思い切って完全に拠点を東京に移すことに決めました。

 

―東京に出てから何か変化はありましたか?

ええ、かなり変わりました!東京で事務所を構えてからは、教室とは別の仕事が入ってくるようになったんです。レシピの編集やフリーペーパーの撮影、企業からのレシピ制作依頼、フードコーディネートなどのお仕事をいただけるようになりました。仕事の幅が広がって、自分の世界観を作れるようになったし、依頼されたものに関しては、いただいた制約の中で最大限の形を提供するということに面白みを感じるようになりました。今では、教室もバランスをとりながらやっていて、お仕事のウェイトが変わってきましたね。

 

―本を出そうと思ったのは、東京に出てきてから?

それよりも前からですね。関西と東京の往復をするようになった頃、人脈も増えると見える世界も変わってきて。色々な方が本を出版されている中で、「もしかしたら自分にも書けるんじゃないか!?」という気持ちが湧いてきたんです。その当時は、編集者の知り合いがいなかったので、自分で企画書を書いて出版社に送りましたね。

 

―企画書を出版社に!?すごい行動力ですね!

ええ、50社は出しました。結果は、全部ダメだったんです。でもね、その時の自分にできる全てのことをやったと思えたので、自分の中でも納得がいきました。一旦出版の夢は置いておいて、他のことでがんばろうって何となく思えたんですよね。

 

―何というか、基本的に人一倍負けず嫌いですね(笑)

そうなんです!そもそも料理の道に入ったきっかけもそうですしね。悔しくて、上手くなりたくて。もともと、何かを得るには人より時間がかかるタイプなので、自分の中で検証して実践して克服していくんです。だから先生に向いているのかもしれない。出来ないということ、上手くなるためのステップを知っているということは、教えることにおいて私の強みになりました。

 

―そういうベースがあって、準備していたからこそ後にチャンスが巡って来るんですね。

そうそう、あの時思いつく限りの出版社に企画書を出したという行動が、のちの出版チャンスに繋がるんです。
数年後、ある編集者の方と知り合って、「企画書を1つ書いてみて」と言われてすぐに書いてお渡ししたら、出版社に私の企画を送ってくれたんですよね。すると、たまたまグルメ本の枠が一つ空いているとのことで、企画の期限が迫っていたのもあり、すぐ会いたいって言われて。あれよあれよという間に、1冊目の本が出来上がってしまいました。

運も良かったしタイミングも良かったですね。ありがたいことに好評をいただいて、「この子の2冊目がないのがおかしい!」と出版社から言われたのをきっかけに2冊目、3冊目と続き、今では数社から16冊も出版していただきました。中には図書館指定にしていただいた本もあります。

 

―すごい大躍進ですね!でもドラマチックに見えて、受け取るべくしての結果とも言えますよね。

ありがとうございます。褒められて伸びるより、叩かれて伸びるタイプです(笑)
その時その時、自分にできることを一所懸命やってきたからこそ乗れた波でしたね。だからこそ、ご褒美として降ってきたんだなと思います。

 

―それは、木村さんが「度胸に裏づく努力」をしてきたからこそではないですか。

そうかもしれないですね。その努力が自信につながっているなって思えるんです。

 

―これまで、たくさんの生徒さんを教えてこられた木村さんのですが、ご自身の「教室のこだわり」というものはありますか?

昔は、「こうあるべき」というこだわりもあったけど、今はもっとラフに楽しくできることを目指しています。教室は、初期の頃から来ていただいている生徒さんが多いので、割と平均年齢が高めなんですよ。どちらかというとおしゃべりを楽しみに来てくれている方も多くて。この前は、数ヶ月ぶりに教室を開催できたんですけど、「やっと木村先生のお菓子が食べられる〜!」と言われて、待っていてくれたのが嬉しかったですね。

うちの教室で出しているお菓子はフランス菓子がベースですが、生徒さんの希望があれば他ジャンルを取り上げることもあります。結構幅広いですね。

 

―本もこれだけ出版して、目標も達成されている木村さんですが、今後やりたいことはありますか?

テレビのお仕事を今までにもいくつかいただいているのですが、バラエティ番組だけじゃなく、『今日の料理』のような王道な料理番組にも出たいですね。本の出版にしても、最終的には、やはり料理のプロとして評価されるようなオーソドックスな「何か」を残せる人になりたいと考えています。結局は、今やっていることをコツコツ続けていくことですかね。

 

―最後に、木村さんがお仕事で大切にされていることは?

一つの仕事のクオリティーを上げる努力をした方がいいと思っています。そこまでこだわる?というところをきっちりやる、人が見ていないところでも納得いく結果を出すということ。当たり前だけど、そういう一つ一つの積み重ねで「木村さんだから」と安心してお仕事をいただけますし、紹介へと繋がることになります。自分が積み重ねてきた努力は、信頼となって自分自身に還ってきますからね。

それが私の考える「プロフェッショナルである」ということです。

ライター: ColoR

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